こんな静かな夜-長田弘

こんな静かな夜  長田弘

 

 

先刻までいた。今はいない。

ひとの一生はただそれだけだと思う。

ここにいた。もうここにはいない。

死とはもうここにいないということである。

あなたが誰だったか、わたしたちは

思いだそうともせず、あなたのことを

いつか忘れてゆくだろう。ほんとうだ。

悲しみは、忘れることができる。

あなたが誰だったにせよ、あなたが

生きたのは、ぎこちない人生だった。

わたしたちとおなじだ。どう笑えばいいか、

どう怒ればいいか、あなたはわからなかった。

胸を突く不確かさ、あいまいさのほかに、

いったい確実なものなど、あるのだろうか?

いつのときもあなたを苦しめていたのは、

何かが欠けているという意識だった。

わたしたちが社会とよんでいるものが、

もし、価値の存在しない深淵にすぎないなら、

みずから慎むくらいしか、わたしたちはできない。

わたしたちは、何をすべきか、でなく

何をすべきでないか、考えるべきだ。

冷たい焼酎を手に、ビル・エヴァンスの

「Conversations With Myself」を聴いている。

秋、静かな夜が過ぎてゆく。あなたは、

ここにいた。もうここにはいない。

 

「死者の贈り物」みすず書房 2003年 より

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です