いろいろをひっくるめて花は

20170407sakura

子供の頃や10代の頃に見たはずの桜のことはあまり覚えていない。
「きれいだ」とは思っただろうが、今ほどに心に迫るような美しさを感じはしなかった。

今日は雨が降っていたり曇り空だったり、はっきりしない陽気だったが、ふと見上げたら青空が広がっていた。

この頃は気付けば桜ばかり探している。
どうやらそれは色彩が、多くを忘れさせてくれたり、思い出させてくれたりするからだ。

年齢を重ねて疲れやすくなってきた。認めたくなくても認めざるを得ない。
走ったりヨガをしたりして抗うが(抗わなければもっと急速な放物線を描いて身体機能は衰えていくのだろう)、老いは誰しもに平等に訪れる(おそらく)。

年齢を重ねた分、春を迎えた回数を重ねているわけで、きっと見上げた桜の色彩が身体に蓄積されていき、蓄積されればされたぶん、「きれいだ」と心で感じる感度は増すのだろう。

そうでないと説明がつかない。今日も目撃したが、老齢の人が、得も言われぬ表情で花を見上げている。その表情の、何とも言えぬ積み重ね、その人にしかわかり得ない今までの記憶、喜び哀しみ、あれやこれ。いろいろをひっくるめた表情でもって花を見上げている。

その表情の、心に迫る何かしらとは何だろう。

一概に「きれい」とは言い切れない。
けれどもやはり、「きれい」に感じる。
加えて満開の花は、「きれい」を超えて、怖くさえある。
自然が持つ暴力にも似た力がまさに「降ってくる」。

その感受、初心の心地、忘れたくはないが忘れてしまう。
いかにすれば忘れないでいられるだろう。

それはきっと、あまり過去や未来に思いを巡らせずに今を、まさに今をきちんとすることからだと思われる(今の時点で見つかる回答はこんなところ。また時間を積み重ねれば、別の答えが見つかるだろう)。


昨日、お寺の境内にて。いつものように娘を保育園に連れていく折。

つい先月まで娘と同じ保育園にいた1歳上の学年の女の子が、両親に連れられ、ちゃんとした格好でランドセルを背負っていた。そうかどうやら入学式。境内はすっかり桜が咲き乱れており、まるで夢の景色の中を、両親と入学式に向かう様子。

うちの娘はその女の子のことを知っているから、「〇〇ちゃん!」とランドセルを背負った女の子に声をかけたが、その子は何とも言えない不安そうな表情にかろうじて口元だけ笑みを浮かべた。

当然だ。期待もあるが、不安でいっぱいだ。その表情になんだか胸を打たれた。

これから向かう未知の世界に足を踏み入れていく。ぴかぴかの一年生とはよく言ったものだ。保育の期間を経て、これからひとつずつを学んでいき、自分の足で歩いていく。不安でたまらないに違いない。

そんな心地を抱きながら桜の色彩に胸を躍らせる余裕があるだろうか。少なからず私はなかった。新年度になるたびに新たな不安を抱かざるを得ない、いわゆる学生の頃は「桜が本当にきれいだ」とは思わないのではなかろうか。気休め程度にしかならないのではなかろうか。

なんて思ったら、そうか桜が本当にきれいだと思うのは大人になったということかもしれないぞ、加えてそれはちょっと寂しいことでもあり、けれども不安とともにある期待みたいなものも同時に失ったかもしれないと思うとやはり寂しくもあり、

大人になるというのはつまりさまざまな種類の寂しさがやってくるということで、同時に寂しさへの耐性が身に付いてくるということかと思うと、桜を見上げる老齢の人の表情にはやはり、得も言われぬ物語を勝手に深読みしてしまわざるを得ない。

なんていういろいろをひっくるめて花は咲き、見上げ、きれいだなとか思う。
いろんなことなんてどうでもよくなる咲き乱れる花はただ咲く、自然のままに。

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