新潟県南魚沼市・坂戸山登山

新潟県南魚沼市にある坂戸山に登山。

5/5こどもの日に娘を連れて。

標高は634m。スカイツリーと一緒。

 

子を連れては気遣いもあるのでそれなりに時間もかかります。大人とは違う一歩だし、途中で弱音も吐く。けれどもどこかでふと自覚したのか弱音を言わなくなり、むしろ大人より健脚にずんずんと登っていく。それはつまり登山の醍醐味に出会った瞬間なのかもしれません。

 

頂上にたどり着いた娘の「ついたーー!」という喜びの声は人一倍でした。
きっと今までの彼女の人生においても、実に大きな達成感を味わったことでしょう。

結果、その後の彼女の態度が若干大き目(えらそう)なきらいが見えるのはまあよしとしましょう。

20170505-sakadoyama

 

 

 

その翌日、5/6は独りで登ってみました。

なぜ?って、登りたくなってしまったから。

 

子どもと一緒とは勝手が違い、自分のペースで黙々と。昨日は1時間20分かかった登頂時間、ひとりだと40分で頂上まで着きました。

2日続けて同じ山への山登りなんて!

そんな人生が訪れるなんて、まるで信じられません。

 

20170506-higher

こちらの写真は帰り道。雨もぱらついていたので登山客はほぼおらず。ひとり黙々と登って降りました。写真だとわからないのは高低差、相当な下り階段です。

 

そんな道中は必然的に孤独と対話するしかございません。

 

むしろ孤独との対話を求めて一人登ることを選択したのですが、登山道のハードさにそれどころではなく、瞬間瞬間の足場のこと、踏み出す階段の強度、次の一歩に控える石のすべり具合など、考えるべきことは多くて、むしろそういう「瞬間瞬間」に集中しなければならない状況が強制的に訪れることが、つまりは「登山の愉しみ」なのだと気付きました。

 

そうか登山は
「一歩一歩に集中せざるを得ない状況が強制的に訪れる。集中しなければ命を失いかねない」
ことが愉しいのだ、と。

日常のあれやこれから遠く離れた場所で、まるで苦行な登山に興じる楽しみとは、一歩踏み外せば身の危険が訪れかねないこととの一瞬一瞬の命のやりとりにあるのだろうなと。

なんて大袈裟に思ったのも、ひとりで登山していたからでしょう。

疲労と孤独はあるのだけれど、それでも歩き続けねばならないからこそ、必然的に思考は高揚します。

疲労とか孤独とかは、目の前にある道を進まなければならないことに比べたらたいしたことはない。むしろただ前に進むことの方に、心身は優先される。

 

頭でっかちにいろいろと考えてしまうのは、余裕があるんです。ひたすら登らなければ、ひたすら下らなければ、といった山登りにおいては、余裕なんてものはなくなって、一歩一歩をちゃんと踏み出していかなければならない、その行為によりもっと野生に近づいていく。それがおもしろい。

逆を帰せば、そんな野生が大変だから山を下り、文明を築いて今があり、その申し子が私たちの世代で、そんな世代が逆に野生を求めるのは、人が人たる業によるんでしょうね。

 

 

 

というわけで、登山の愉しみの入り口みたいなものに気づいてしまったかもしれません。

「毎週末気付けば山登り」

そんな人生も幸せでしょう。

 

あ、ひとり孤独に黙々と、と言いましたが、黙々ではなくて、時折歌いながら登っておりました。次回のパパバンドライブで歌う予定の「パパの歌」。

 

「昼間の~パパは~ちょっと違う~昼間の~パパは~光ってるぅ~」

って、ひとり歌いながら山道。

って。

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