静かな本

20170629

本をいっぱい読みたいとは若い頃から思っていたことだが、もちろん今でも思うが、そして時々の興味は新たな出会いをした本に向けられて仕方がないが、心のどこかでは「もうそんなにたくさんの本を読むことはできない」ということに気付いている。

本を以前から継続的に雑食的に読み続けているが、じゃあ本は何かと言われれば「信用するに値するもの」と思ってきたし、今でもそのように思っている。

数奇な縁で本に関わる仕事に幸運にも就き、それからもう何年も過ぎて当たり前のように毎日本を手にする日々を送っているが、改めて思えばそれはずいぶんと妙な心地だ。

本はあくまで媒体で、そこに書かれている著者の思いや主張や奏でる物語に出会い、向き合い、呼応して、目に見えない概念のようなものを手にする。しかし目には見えず、輪郭もはっきりせず、不確か極まりなく、下手をするとあっという間に読んだ内容を忘れてしまい、誰よりも忘れやすいたちなので、もうすっかり忘れてしまったことばかりが蓄積している。

となると、読み捨てては忘れてゆく文章の連なりが無用にただ積み重なっているような「朽ちた場所」にいるみたいで、けれどもそんなことはなくて日々を仕事に費やし、せっせと次々本を読み、朽ちた場所の肥やしをせっせと集積させている行為は無駄のように思えるが、きっとそういうのが好きなんだろう。

時代が進んで興味の細分化が先鋭的になっていけばいくほど、人は好きなことしかしなくなる。そのうち好きなことを突き抜けた人がそのまま生業を手にし、よりその「好き」を深めていく。

繰り返す歴史に聞いて確かなことは、未来を予測することは不可能ということと人は愚かであるということで、不確かな未来に愚かに立ち向かうための武器としての「好き」を、今一度自身に問い直し、改めて未来に、いや「まさに今」に向かう必要があるということだ。その「好きなこと」を以てして。

「好きなこと」とはなんだろう。

それを問うことができる今の時代は、とても贅沢で自由に見える。

それは本当だろうか。

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