ゆめのあと

昨夜ビル・エヴァンスを聴いていたら、すっかり夜が更け、すっかり夜更かし。

日中の仕事ははかどったので良しとしますが、ずっと眠気のカタマリが頭の周りを覆っていたような。

 

ビル・エヴァンスをずっと聞いていたら、ポゴレリチのブラームスが無性に聴きたくなりました。なぜだろう。

それは身体に宿る物語のせいですね。

 

BRAHMS・POGORELICH

 

ポゴレリチのブラームスについて書いたのはもう随分前で、読み返してみたら、思っていることに近い感触が、それなりにきちんと文章化されており。と同時に、「困った音だ」とも書かれていました。今聞いてもそれは同じ。

音が心の深いところにある襞(ひだ)に、直接しみこんでくる。過去以上に今の方が。

 

何度も聴くだろう。何度も何度も聴くだろう。

年老いた私は椅子に深く座って抜け殻のようになって聴いているだろう。幸福だろうか。

 

 

仕事の帰り、雨がそれなりに降っていて、朝は降っていないから自転車で出勤したのだけれど、あきらめて電車で帰り、自宅最寄り駅に着くころには止んでいるだろうと勝手に思っていたら、最寄り駅の地下鉄から地上に出るとダァーーーっと雨が降っており。止まないかとしばし待つもののまったく止む気配無く、仕方なく走りだした。それはもうすこぶる濡れてしまったが、走りながら「まいったな」という気持ちよりも、「なんだか楽しい」という気持ちの方が勝っており、そうやって古い記憶が困ったことを補完して楽しくさせる。

確実なものなどありはせず、行為のその瞬間には気付くことなく、忘れてしまうほど時間が過ぎてから、裏返しのカードがめくられていくように、思いがけずに物事が明らかになってゆく。

帰宅して身体が冷えないうちに風呂に入り、ほっとひと安心したらもう、雨はやんでいた。まるで夢だったか。それはまるで夢の中の出来事だったのか。ということは今はゆめのあとか。なにをどうすればよいだろうか。

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