きちっとゆるっと

 

久々にランニングをしたら、それなりの強度、身体への高負荷でのランニングができ、走りの記憶は身体が覚えていたことに安心した。

まだまだ走ることができる、ということを身体が軽やかに実践してくれたことに嬉しくなった。

 

 

周囲に起こる出来事それ自体は単体で起こるが、自身を通すと重層的になる。

あちらとこちらが響き合う。

例えば別れの体験は芸術作品と響き合う。先日訪れたジャコメッティの映画に関してのトークショー、田中泯と松岡正剛の対談は、私の体験と密に響き合った。完成を目指さないジャコメッティの作品は、一緒に居た人との関係性を投射していた。それを両氏はまるでわかっていたかのように話した。ジャコメッティは「私の作品は提案である」とし、作品の造形はきちっと形を成してはおらず、でこぼこした曖昧さを目指した。それはつまり関係、探求は終わらないということを含んで作品に投影させていたということだ。

 

 

きっちり決めてしまうこと、完結を求めてしまうこと、それ自体が間違いだということにもっとはやく気付くべきだったし、むしろ頭を切り替えて、ずっと過程に居る、提案を咀嚼する最中、いつにおいてもうつろいつづけることをむしろ遊ぶ、くらいがちょうどよい。

そう思えばどうやら、なにもはじまってはいないとはいわないが、まだはじまったばかりであり、終わることはきっとなく、ただ続いていくその流れにいるだけである。

たとえば水族館に行けば、魚たちは泳ぎ続けていて、そこに完結は無く、人はそれを見ていれば安心したりし、本来自然とはそういうものだろう(水族館が自体は不自然なものではあるが)。

 

 

きちっとしない。ゆるっとする。素直でいればよい。

 

あいや、「きちっ」とか「ゆるっ」とかいう言葉自体が曖昧なのだから、もっと良い具合の語意を獲得すればよかろうか。

慣習を疑い、あるべきの「べき」を問い直し、「こうしたい」という場所をもっと目指したい。

でなければ閉塞極まりない。それは自分で自分の首を閉塞しているだけだ。

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