為し得ることの些細と些末

machines

どうでもよいところと、どうにかやらねばならぬところの粋を行ったり来たりして、果たして何を為したかといえば何も為しておりません。ただ行ったり来たりしているだけに過ぎずです。

しかしながらその行為自体に従事していることが大切であり、行為を外れて傍観していることは楽ではありますが面白くは無いのです。面白いか面白くないかでいえば、きっと面白い方が好ましいのであろうと思います。

それもひいては先人たちの恩恵、選択肢としての「面白いか面白くないか」を選択できる世界に住まうことのできる有難さを、まずは思わねばなりません。そもそもそれこそが贅沢。何を為すにせよ、少なからず長らく従事しているのであれば、よりよい形で受け取ったものを次に渡していかねばなりません。

「仕事」というものにどうやら日々を費やさねばならぬようになってから、「仕事」というものそのものについての印象が随分と変わったような気がします。

というのも、もっと単純に明快に、あるいは現代的に、ただ生活のために生きていくために食べるものを得るためにしているのが「仕事」だと思っていました。いや本来は実際はそれ以上でもそれ以下でもないのですが、「仕事」の様相とは、何かを受け取り、自身のところで何かしらを行い、そして次に渡す行為であるのだ、オファーがあって、自身を通過して、次に受け渡すという行為の、人の営みはそれ自体の連続であり、それが仕事である、と。

例えばプロデューサーの意図を汲んだディレクターはタレントを操作して番組を制作し、それを視聴者に渡す。

例えばレジスターは客がカゴに入れてきた商品をバーコードリーダーを通して金額に返還し、総額を客に伝えて金額を受け取ってお釣りを渡す。

例えば酒場においてはマスターなり料理人なりママなりが、酒と肴と気の利いた喋りを客に提供する。

仕事が何かを受け取り、何かを受け渡す行為であるならば、できれば受け取ったものをより良い形で次に受け渡していければと思うのです。ほんの少しでよい。大切なのは、「より良い形にして受け渡そうとする意志」です。仮に粗悪になったとしても仕方がない(だめですが)。為そうとしていればそれは構わない。もう一度言います。大切なのは、「よりよく渡そうとする意志」。

そのために自身を費やすのは構わないのです。むしろ何を為すべきかと問われても、いったいそれは何だろうと、答えに窮するのが俗世であります。よりよい形で受け取ったものを次に渡す。その渡すという行為に収斂される「面白さ」が、どうやら生きるということを彩る行為です。

為すこと為せることはほんの僅かです。できうる限りの良心でもって次に渡すこと。

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