ただそれだけで、シンプルだ

20170415

誰かといろいろと話をしたくて主に今思い悩んでいることを誰かと話をしてみたいと思い、よし誰かと話をしようと思ったが、心当たりがなくて途方に暮れた。

主に聞き手にまわることが多く、たまに吐露すると一方的になりがちなので控えていて、それでもそんないろいろをちゃんと聞いてくれる奇特な人もたまにいて感謝する。

めぐり合わせの妙が、このところはうまく合わない頃合いだろうそんな時期もある。


誰かと酒を飲んだりしながら話をすると、まずは相手の話を聞きたいと思う。

相手が今どのような境遇にあり、どのようなことを思い、そして話すことで思考が整理されて、気付くと話し相手自身で自己解決することも多い。

話すことで整う。もちろん、そのためにきちんと聞く。

傾聴、という言葉があって、出来る限り相手の話に耳を傾ける、ということだが、

精神科医をしている同級生がいて、久しぶりに会った時に、彼の聞きぶりはまさに「傾聴だ」と思った。

ただの飲みの場なのに、職業柄、そういう姿勢が身に付いているのだろう。

そんな彼にはつい、話し過ぎてしまう。彼が「聞き上手」だからで、加えてプロだからだ。


彼に聞いてみたことはないが、人の話を聞くことによって自分に溜まっていく「澱」みたいなものはないのだろうか。

私は溜まる。溜まるから、その解決策として今は「走ること」を選択しているのだと思う。


加えて

情報メディアにさらされ続け、かつ日々の人とのかかわりにおいて、実に多くの「情報あるいはネタ」が身体に入ってくる。

必然的に取捨選択し、摂取し受け流す技術を養っていかざるを得ない。

それは現代を生きる上では必要なのかもしれないが自然なことではないので、身体が自ら整おうとする、頭ではなく身体が。

という自然発生的欲求において、私は身体に従属して「走る」ことをしているのではなかろうか。


まわりにさえぎるもののない直線を黙々と走る行為は座禅に近い
(走っているので「走禅」)。

身勝手に思い浮かぶ思考思索と戯れつつ、呼吸に戻って「今、ここ」を走っている行為に没頭すると、整う。

疲労が増してくると、余計なことはだんだんと考えなくなってくる。思考に無駄がなくなっていく。

それはすなわち、ランナーズハイだろう。


情報社会に乗り遅れまいと、せっせと情報を摂取しながら、反面情報からできるだけ遠くに行きたくなり、習慣に「走る」ことを組み込んで、余計な思考を排除する。

まるで矛盾を抱えながら、それが幸福かどうかはわからないが、「わからない」と言っている時点で幸福ではないのだけれども、幸福は永続的ではなく瞬間的に訪れるので、「そんなことを考えながらつらつら文章を書いている行為」自体は幸福か。

わからない、いずれにせよ誰かと話がしたいと思っているということは確かだ。


というところまで書いたものを読み返したら、「めんどくせえやつだな」という印象を抱いた。

どうでもいいじゃないか、話したい相手と話せば。ただそれだけで、シンプルだ。

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