樹影

kichijoji-tree

数日前の光景で見上げた赤い葉を豊かに抱える大木を下から。

この写真自体はすでに1週間ほど前(11/21)に撮ったものなので、さて現在はどのような樹影になっているのだろう。

結果この樹が何の樹かっていうのは今でもわかっていません。もうちょっとちゃんと調べてみればきっとわかるでしょう。

1.葉の特徴を捉える→落葉を拾っておくor写真を撮っておく
2.木肌の写真を撮っておく
3.図書館にある「樹木図鑑」などで調べる

きっとこれでわかるはず。

4.寺を通過する際、清掃をしている作業員の人がいるので聞いてみる

おそらくこの 4.がいちばん早い方法だと思います。

でも別に知らなくってもいいのかもしれない。

引っ込み思案なもので、なかなか初対面の人に急に話しかけるのは苦手です。「えっそうなの」と言われますがそうです。「それは損をしているよ」と言われることは特にないですが、損得は特に気にしません。なので結果人と親しくなるのは自然の流れ次第だと思っています。その流れの結果としての今を生きている。自分の意思で切り拓いてきた部分も少なからずありますが、同時に流れに任せてきた部分もあります。

「意思&流れ」によって今にいます。嘆こうがわめこうが、現状というのはその結果に過ぎません。そしてこれから先は、まさに今思考する「意思」によって地図が描かれ、あとは「流れ」によってどこかしらへ導かれます。さてその先はどうなっているのか。それは誰にもわかりません。

娘に限らず、多くの子どもを見ていて思うのは、彼ら彼女らは「まさに今」を生きているということ。大人になると「まさに今」を生きることを忘れてしまうといいますか、過去にとらわれたり、未来に心を揉まれたり、「心ここにあらず」な状態を過ごす比率が増えていきます。結果「まさに今」を忘れてしまう。

仕事をおぼえたり、技術が上達することは大切ですが、結果として「今」をやり過ごす「無意識、ルーチン」を身に付けてしまい、それは果たしてよいことなのだろうか?好奇心旺盛に、毎日を子供のように過ごすことはできないのか、と考えながら日々を過ごしますが、これがなかなかできないんですよね。つい過去の経験によってしまう、似たものを探してしまったり、現状・現在に起こっている状況の、これから先を想像してしまう。

いや、大事なんですよそれは。仕事とかってそうだったりします。過去の経験に基づいて未来を読み、しかるべき手を打つ。過去と未来を行ったり来たりする。でもその結果「今」をおろそかにしてしまう。そんなスキルが勝手に磨かれて身に付けてしまっている気がします。

これはいけない!どうにかしなければ!

思い起こせば芝居をしているときなどは、長い稽古期間を経て本番に臨むのですが、その本番の瞬間は、「まさに今」しかないのです。だから面白い。劇が起こる。だから面白くてまたやりたくなってしまうんでしょうね。

もっとちゃんと今を捉えて生きる。

今日音楽を聴きながらジョギングをしていて、「spotify」っていうアプリを最近愛用しているんですが、走る速度に合わせて音楽を選んでくれるんです。なので足を踏みしめるタイミングとビートが合うんです。これ、結構いい。走りがより楽しくなります。

音楽が一歩一歩の走りに合わせてくれる、その一歩一歩踏み出す行為がおもしろい。息は上がってきて足も重くはなってくるんですが、今の一歩一歩踏み出す行為自体に集中していれば、より走りを楽しむことができる。走ってきた今までのコースと、これから進む先のコースのことはしばし忘れて、まさに今だけのことを考えて走ることがおもしろい。

見上げたその先にある樹影を見る、風が抜けて葉群が大きくそよぐ、大きく呼吸をする、抜けた風を身体を通す、息を吐く、ただそれだけの一瞬をその樹を見上げながらします。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする