「なにかのため」とか「だからどう」とかいう理由づけは放り投げ、「ただもうそのことをやらないとやっていられない」「やりたいからやる」のだからやる、やらざるを得ない行動せざるを得ない、という状態が望ましい。

「これをしたい」ということに自由になりなさい、と開放・闊達してくれたのが私たちの親の世代で、さて好きなことってなんだろうと問いますが、見つけられたか見つけられないか、いまだふわふわしているばかりの私たちが親になれば、「好きなことをせよ」と言っても説得力はいまいちありません。

というかまずはそのまえに、「本当に自分がやりたいことってなに?」と、自問自答する力を養うことを与えてあげたい。が、そのためにはどうすればよいのだろう。まずは自分が自分に問うてみるところからか。

「今さらなにをおっしゃるか」

結局自身の人生を切り拓いていくのは自分しかいないので、やるしかないです。おろそかにしていたらおろそかな人生しか訪れません。

どっちでもよいよ、流されようが抗おうが、大きな川の流れは変わらぬもの。そうだとしても、あがいてあらがってそのうえで出した答えであれば、納得はするというもの。

myou

子育てをしていて気付くのは自分の愚かさです。偉そうに子供に「〇〇しなさい」と言ってみても、よく考えてみれば自分ができていない。

それではいけない、子に注意する前に自分ができるようにならなければと思う。愚かさをかえりみる。が、自らの愚かさなんてそうそう簡単に治りはしない。

そもそも自分のことは見えにくい。目をつむったり、棚に上げたり、無闇に守りに入ったりする。子と対話していると、それがあらわになる。

子を叱りながらそんなことを思うと同時に、自分の親も、同じようなことを思っただろうか?とも思う。

きっと思っただろう。子供をもうければ、誰もが親としても育っていかなければならず、そう簡単に慣れるものではなく、同時に慣れてはいけないものでもあり、常に全力、とまではいかないけれども本気で、子育てをする。

そんな子供の成長を見つめながら、日に日に大きくなり言動もいっちょまえになる子を叱りながら、「叱るような資格もない大人なのに叱っている自分どうなの」とか思うのも、親になる階段なのでしょう。

それすなわち妙な階段です。自分からはとてつもなく乖離している模様ですが、そもそも自分なんてあったようでいて無かったようなものだから、カスミのようなもの。妙な心地になります。

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