写真や文章が過去と今をつなぐという話

kichijoji

去年のブログを見ているんですが、2015年6月9日にこんな記事を書いていました。

ただ、走る

鐘楼(鐘突き堂)が同じで、手前の境内も同じ。当然ながら、今の方が娘が大きくなっています。

2015年の冬場に、寺の境内を娘が走っている写真なんですが、その1年後にあたる最近は、このお寺の境内を通って、新しい保育園に行っています。

2015年の冬場に写真を撮った際には、その1年後に毎日境内を通ることになるとは思っていませんでした。当たり前といえば当たり前ですが。

そういうのを振り返るのはおもしろいです。写真を見返すと、そこには過去が写っていて、見返している現在の境遇と照らし合わせてみる。そうはならなかったかもしれない過去からの視点と、動かしようのない今から過去への視点。不思議です。

ところで「ただ、走る」という記事をあらためて読み直してみたら、なんだか「瞑想的」「走る瞑想」みたいな話をしている、と思いました。

最近日々の習慣に、わずかな時間ですが「瞑想」を取り入れています。すきま時間で、目を閉じて呼吸に集中する。5分から10分くらい、時間のあるときはもっと長い時間。そうすると、思考がずいぶんとちらかっていることに気づきます。呼吸に意識を向け、しばらくすれば、ちらかった思考がいくぶんかすっきりします。

「歩く瞑想」というのがあり、それは歩きながらその歩みに意識を向けることで、右足の足裏の感覚、左足の足裏の感覚、そして呼吸に意識を向けて、過去も未来のことも考えない。それでもいろいろな考えは浮かぶので、それはそれとして見つめ、手放して、また歩みと呼吸に意識を向ける。という「歩く瞑想」です。

思えば去年の今頃、とくに意識していたわけでもなく「走る瞑想」的なことを書いていたんですね。

と思うと、写真を見返すのに通じて、文章も振り返りのひとつのツールとなり、あらためて1年後に見返してみたら、瞑想を取り入れている今の習慣に通じることを、当時から思っていたのだということに気づきます。

瞑想をしようと思った自分は、急にある日に「やろう!」と思い立ったわけではなくて、それまでのなにかしらの布石、こころの準備があったからこそ、今に至った。

未来の行為に通じるなにかしらは、すでにこの身近な場所にある。

今ここにあるのは過去の集積で、これから先は今の積み重ねで、瞑想をするようになってから、特にこの「今」に、より注力しようと志向は赴いています。

おそらくは写真に写っている娘は、というか子供は、大人に比べてより瞬間瞬間を生きているのでしょう。まあ子供だからといえばそうなんですが。

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