感受性の話

全方位的に興味や関心を開きっぱなしでいるとしんどいので、大人は次第に感受性の門戸を閉じていく。次々とやってくる事象や問題や人間関係の軋轢に、いちいち全力で対応をしてはいられない(若い頃はできると思っていた)。幼かったり若かったりすると、その加減がわからないから、もろに影響を受けるが、若いから体力もあるし、無闇矢鱈なパワーもあり、スタンスも喧嘩上等(だったので)、どうにかなったものだ。

 

そのうち耐性や免疫がついてきて、それを成長と呼ぶのであるが、より大きな問題に対しても対処できるようになる。そんな大人になって、自覚のないうちに閉じなくてもいいはずの門戸を閉じてしまったことにある日突然気付き、「これではいけない!」とどうにかしようとする。どうにかなればよいし、「これではいけない!」と抗うか抗わないかだけでだいぶ違うだろうけれど、結局は自分自身に跳ね返ってくることなので、あとは文句を垂れずに甘んじて受け入れるか、せめてもの抗いとして走ったりヨガをしたりして気を紛らせる。

 

それとは別に、年齢を重ねていくことで養われる感受性がある。保坂和志の『季節の記憶』に書かれていることだけど、季節は層をなして重なっていくもので、だからこそ年齢を重ねて感じる季節のうつろいは年々面白くなるはずだ。自覚的であるならば。

 

もちろん花の美しさは等価だろうけれど、年齢を重ねて見る花の方が絶対にきれいだ。過去の記憶や場面と折り重なって、そのうえで目の前にきれいな花が咲いている。以前その花を見た場所や、一緒に見た人のことを思い出したりすることで、目の前の風景はより奥ゆきの深いものになる。感受性は積み重なっていくのだと思う。

 

若いうちは多くのものを摂取しようと躍起になる。自分に取り込んでいく、多くを知りたいと思う、プラスしていこうと貪欲になる。それがある時期を境に、どこが境目なのかはわからないけれど、足し算が引き算に転換する。もう多くはいらない。面白味を感じる対象も変化してくる。

 

街でおじいさんやおばあさんが頭上にある花を見上げ、ほのかな笑顔を浮かべていたりすると、もうそれだけで十分になる。ただそこにあるのは花だけれど、その人にしか見ることができない、きっと多くのものを見ているだろうからだ。

 

 

こちらのPVは本分とは関係なくて、昨日のNME79位、Deee-Liteのヒット曲。

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