思考の只中に、見えない手を差し伸べていく読書体験―『遠い触覚』保坂和志

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『遠い触覚』保坂和志【著】

まだ読み終わってはいないが、そして安定の保坂節だが、いつもと同様、本当に面白い。思考するということそれ自体の流れ、とりとめのなさ、飛躍、いったりきたりを、ここまで純粋に文章化できる作家が他にいるだろうか。

読み終わるのがもったいなくて、なかなか読むのが進まない。読んでは立ち止まり思考して、またちょっとだけ読んで本を閉じて反芻する。著者の本はいつもそうだ。本を読むことそれ自体の喜びは、その本に居ること留まること、そこで思考を続けることだ、ということを改めて感じることができる。

本書のほとんどは、デビッド・リンチの映画『インランド・エンパイア』について語られる。なので読みながら『インランド・エンパイア』を改めて観なきゃと思いながら、確か劇場で観たのだけれど、最前列で観て、人のアップの画ばかりで、圧倒され過ぎて上映中のほとんどを寝ていた。なのでもう一度観よう。見た上でもう一度読もう。

リンチの映画『マルホランド・ドライブ』についても語られる。『マルホランド』は、先日DVDを借りて観た。そもそもの映画の構造として不思議な様子で作られているので、普通に見通すとわけがわからない映画であり、当然好みが分かれるところではあるが、ストーリーを順に追って楽しむ以外にも、ストーリーそれ自体が解体され、まるで夢そのものを見ているような映画はあまり他には知らない。本来の夢とはとりとめがなく、物語は破綻しており、しかしその破綻にはリアリティがあったりする。

私たちの生活、生きる現実それ自体は、きちんと整地されたストーリーに従っているわけでは決してなく、行ったり来たり、舗装されない凸凹道なはずだ。

以前にも書いた、『断片的なものの社会学』にも通じる、世界は断片的なものの集積でできているという世界観が、リンチの映画にも繋がり、ひいては保坂の文章にも通じて、きっと私はそういう類いの事象現象が好みであり、より知りたいのだろうと思われる。

「わかる」とは書き手が何を言おうとしたのかを理解することでなく、書き手と同じ思考をすることだ。

「わからない」にはもう一つのベクトルがあり、その「わからない」には「わかる」という対はなく、「わからない」ゆえに思考が先へ先へと進んでゆく。「わからない」とは広い世界へ出ていく出口だ。

より可能性溢れる世界、未だ見ぬ開かれた世界に対峙するための読書体験。

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