ストアハウスカンパニー/Remains

IMG_8573

ストアハウスカンパニー「Remains」を観に行った。

過去に同劇団の公演に何度も出演したことがあるので、いわゆる「普通の客」として観ることができない、という前提を踏まえての劇評。

 

舞台の時間が始まり、暗転から仄かな明かりが生じると、そこにはいわゆるパンティストッキングに梱包された人の姿が塊になっている(写真参照)。「えっ、何なの?」というのが正直な始まりの感想。もう何度か見ているのでわかってはいるのだけど、やはり「何?!」という感覚はいつも訪れる。梱包された人たちは何を表すのだろう。

「主に女性が下半身に履く衣類」であるところのパンストで身体中を梱包する、という見目は、パンストを被るという変態性を脱臼して新たな意味を構築し、どうしようもなく繋がりあった人同士を描く。伸びきったパンストが人と人とを繋いでいる。離れたくても離れきれない人と人の関係が見受けられる。

演者はパンストを何重にも身にまとい、誰が誰だかがわからないはずなのだが、観ていると誰だかを知りたくなる。顔を観たくなる。で、芝居時間が流れてパンストが破れ、個々人の顔が現れると、むしろ顔を観るのが恥ずかしく思われ、身体を観る。そんな裏腹が生じる。隠されているから観たい。露わであれば観たくはない、ということか。

そこから演者は、舞台を縦横し、疲労し、ただの物体と化してゆく。行き場を探し、舞台奥に積み上げられた古着と戯れる。古着が過去の記憶めいて舞台を舞う。舞台空間を埋め尽くすほどに古着が舞うことで劇が生じる。古着は、ただそこにあるだけで多くのメッセージを持っている。そんな古着が舞台上に舞うだけで、劇は劇的めいてくる。古着が舞い、演者が次々と客席に迫ってくる。その居方が重要だ。

そこからの先行きは更なる旅めいてくるのだが、演出家がより新たな場所に向かおうとしている意志を抱え、過去に全霊で作り上げてきた数々のシーンと抗い、格闘している様が感じられた。

演者として出ていた記憶が大鍋スープめいて混濁し、もう二度と会わないかもしれない過去の共演者の顔が亡霊の如く数多く現れた。それこそが「remains」であり、舞台の特性が、記憶と呼応し過去を呼び覚ます要素を持っているからだろう。

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です