『天才』石原慎太郎

tensai

書評の締切が迫っていて、書棚を眺めながら「どうしよ」と、目に飛び込んできたのが、石原慎太郎『天才』だった。

 

石原慎太郎による、田中角栄の生涯。それも一人称で。いわば慎太郎に角栄が憑依したということか。語り口は角栄のそれ。その生誕から、若き日々、議員として、そして総理として過ごした角栄の思いをそのまま吐露。淡々と、飄々と。故郷を、国を思う愛情、より良きを目指すための先見力、行動力。外交の手腕も他に抜きんでており、故に自らを葬ることにもなりはしたのだが。

 

魅力的なのである。著者の筆致も、そこから描かれゆく角栄の人物像も。実に人臭く、余計がなく、より日本を良くしていこうとする思いに突き動かされていく様が、シンプルに「かっこいい」のだ。ロッキード事件で逮捕されながらも、地元では絶大なる人気を誇り、生涯通して大物であり続けた、そんな巨人めいた昭和的政治家が、今はいるだろうか。(いない、ことを言いたくて、著者はこの本を著したのだろうか。)

 

「長い後書き」には、このようにある。

政治を離れた今でこそ、政治に関わった者としての責任でこれを記した。それはヘーゲルがいったように人間にとって何よりもの現実である歴史に対する私の責任の履行に他ならない。

大きな使命感に突き動かされてのことなのである。その熱量が、淡々と語られる文章から、硬質であるはずなのに伝わってくる。ぐいぐいと読ませる。それが文体か。

 

政治を引退した著者が、角栄が引退した後の思いを想像し、書き連ねる終盤が痺れる。著者を忘れ、角栄自身の思いを読み進めているはずなのだが、そこには確実に、政治を引退した著者の姿が重なる。意図したことではないのかもしれないが、角栄が筆に憑依し、展開される。文学が醸される。

 

物書きには他者が憑依し、混交する。まるで誰が語っているのかがわからなくなる。天才が天才を描いた、と言ったら言い過ぎか。今だからこそ著者が、角栄を描いた意味が、そこにはある。著者は角栄の力を借りて知りたいのだ。これからの日本の姿を問い、憂い、知りたいのだ。

 

今私たちが住む日本は、角栄が先見していた日本であり、著者はそこに立つ私たちひとりひとりに問う。角栄の言を借りて、これからの日本はどうあるべきかと。

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