踊りとはなんだろう?chemical brothers/wide open を何度も見て思うこと。

chemical brothers/wide open のPV(promotion video)を何度も見て、思いつくまま書いたのがこちら→以前の記事
酔っていたから何を言っているかわかりませんね、いけません。でも前に進もう。

四肢が徐々に網状になっていく、という内容のPV。ダンサーは日系イギリス人の女優・モデル・バレリーナのソノヤ・ミズノ。

最初の表情のアップ、芯の強い視線に魅せられます。お会いすることがあれば惚れるでしょう。視線が強い人は、世界を見てやろう!という意志にあふれており、好きです。

いや、この彼女の視線は「世界を見てやる」というよりも、その奥を見通すようでいて、それがまた良いのです。視聴者を見透かすようでもあります。

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このPV、何が面白いって、身体が変容していくうち、表情は憂いを帯びながらも踊り続けてしまう行為をやめられないということ。そして全身が変容したあとも、弾けるように踊り続けること。

それは人のサガなのだろうか?そのサガ、踊り続けることが、なんだか「哀しい」のに、「わかる」ような気がする。それが面白いんです。

chemical brothersの楽曲、映像チームの制作技術、そのすばらしさはもちろん、それがまるで、これからの未来を予見するようです。

テクノロジーの進化により、人間の身体は次第に別のものになっていく。人工知能の発達により、人間はいわゆる人間から、人間的な何か別のものになっていく。

最近よく耳にする、「シンギュラリティ=技術的特異点」という言葉が浮かんできます。

技術的特異点(ぎじゅつてきとくいてん、英語:Technological Singularity)とは、人工知能が人間の能力を超えることで起こる出来事とされ、テクノロジーが急速に変化し、それにより甚大な影響がもたらされ、人間の生活が後戻りできないほどに変容してしまうとする未来予測のこと。単にシンギュラリティSingularity)ともいう。未来研究においては、正確かつ信頼できる、人類の技術開発の歴史から推測され得る未来モデルの限界点と位置づけられている。

‐wikipediaより

最近『未来に先回りする思考法』という本を読んでいるんですが、最近読んだ中では一番面白い。ちょっと前に、ピーター・ティールの『ゼロ・トゥ・ワン』を読み、そこからの流れとして読んだので、これから先の未来を考える上での、ひとつの指針となる武器を手に入れた!という感じがしました。

「未来はもうすぐそこまで来ている」

で、そんな来たる未来を憂いながらも、それでも踊らなければならない、人間的なものが失われても、それでも踊り続ける。

「では、踊りとはなんだろう」

踊り続けること、それ自体は、人間が人間でなくなってしまってからも、引き継がれる人間的なものなのかなと思います。逆に、世界が新たな知性に覆いつくされ、今の普通が普通でなくなった後でも、それでも残り続ける、人間的なものの名残なのかなと思います。

「身体が躍動するままに、踊り続ける」

あるいは祭り囃子を耳にすれば、ただ身体が動いてしまい我を忘れて踊ること、それが大きなものとつながる感覚。

みたいなことを、このPVを見ながら思い、哀しくもありながら、それでもまた見てしまうのはなぜだろうと思いながら何度も見てしまうのです。

「では改めて、踊りとは何だろう」

というのを知るためには、踊り続けなければならないのだと思います。何かを知りたければ、それは反復の先にあるのだと思うのです。先に待つ未来に向けて、少なからず自分だけが語ることのできる武器は、ただひたすらの反復の先に現れる、余計なものをまとわない、素の自身が持っています。

そこに至るまでは、ただひたすら踊り続けるしかないだろうと。

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